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南画入門講座1 南画史概略

 ここでは南画の基本的な知識を簡単に説明しておきましょう。まず、南画がどのように発展してきたのか、その歴史の概略を知りましょう。

      

南画の源流


 美術史の本を読むと、南画の祖は中国唐時代の詩人画家・王維だと書いてあります。唐時代に山水画の二つの流派つまり北宗画と南宗画ができたとされ、北宗画の祖を宮廷画家の李思訓・昭道親子、南宗画の祖を文人の王維としています。北宗画は力強い線と濃彩色の装飾的な画の流れを、南宗画は水墨の山水画の流れを作ったといわれています。その後の五代・宋時代に関同、董源、范寛、米元章、米友仁らが南宗画の系譜を継ぎ、その後の時代の元、明、清に発展していきました。

 このうち日本南画の直接の源流になったのは元時代の末に現れた「元の四大家」とよばれる画家たち、黄公望、倪さん(王偏に賛・号「雲林」)、王蒙、呉鎮だといっていいでしょう。南宗画は「元の四大家」によって大成されたといわれていますが、日本南画もこの影響を大いに受けています。

   元・黄公望「富春山居図巻」(部分) 台北故宮博物院蔵黄公望 「富春山居図巻」部分
倪雲林 「容膝斎図」

 元・倪雲林「容膝斎図」 台北故宮博物院蔵

   

日本への流入


 南宗画は江戸時代の中ごろになり日本に入ってきました。当時、中国は清時代で、画家沈南蘋が長崎に入り、写生風の南画を伝えました。それまでも禅宗の僧侶の余技として入ってきていましたが、本格的な流入はこれが初めてとされています。その後、伊孚九が来日し、文人画としての本格的な南画が流入することになりました。また、それにともなって、中国からも大家の作品がもたらされるようになり、「元の四大家」や明時代の沈周、文徴明、董其昌などの絵画が紹介され、一大発展を遂げていくようになります。

 日本の南画はその初期から儒者の祇園南海、武士の柳沢淇園、俳人の彭城百川など専門の職業画家ではない、いわば文人、知識人によって取り入れられます。その後、池大雅、与謝蕪村らによって日本独自の南画として大成され、さらに江戸時代後期になり浦上玉堂、田能村竹田、渡辺崋山らによって本格的な文人画として発展を遂げます。しかし、幕末から明治に入ると富岡鉄斎など個性的な画家も出るものの、明治21年、東京美術学校(東京藝術大学の前身)開設に際し、南画は授業科目から除外されるなど政府の美術教育から排斥され、日本画の中枢から外れるに至り、文人画としての南画も衰退に向かいます。

明治以降の南画


 江戸末期の南画界は、南・北両派を融合した江戸末期の谷文晁の門から渡辺崋山、立原杏所、田能村竹田、田崎草雲ら多くの職業画家としての南画家が輩出します。明治時代に入ると、田能村竹田の門から児玉果亭、田近竹邨らが出て、京都南画壇の礎を築きます。一方、田崎草雲の門からは小室翆雲、渡辺崋山の門下からは椿椿山、野口幽谷、松林桂月と続き、東京南画壇の流れを作っています。現在の南画壇は主としてこの文晁門の三つの流れの下にあるといっていいでしょう。

 明治時代の日本南画の主流は、江戸時代からの伝統的な中国風山水画が中心で、大変流行したといわれます。しかし、中国の南宗画家が自国の自然風景を見て描いたのに対し、それに傾倒した当時の日本の南画家は、自ら中国の風景をスケッチしてきて絵に描いていたわけではありません。その多くは、中国や日本の先人の絵を参考にし、中国風の山水画を描いていました。そして、そういう山水画を見れば、だれもが「この絵は南画である」と理解したのです。

 しかし、このことは結果として南画というものを一定の形式の中に閉じ込め、中国式の山水画を模倣するだけで、次第にマンネリ・形骸化を進めることになりました。一方、時代も中国文化へのあこがれから西洋文化を求める風潮に変わっていくにしたがい、日本の南画は次第に衰退への道をたどります。

 大正時代に入ると新しい動きが起こります。大正3年の再興美術院第1回展では、文人画法を取り入れた新しいスタイルの日本画が登場して、南画の精神を受け継ごうとする気風が持ち上がります。小川芋銭、富田渓仙、平福百穂、森田恒友らのいわゆる「新南画」といわれる動きで、絵を写実から解き放ち、画家の主観を重視する新しい傾向でした。しかし残念ながら、これも長くは続かず、「新南画」が現代南画の主流につながることはありませんでした。
 一方、南画の主流は、大正10年に小室翆雲、矢野橋村らによって初の全国の南画家の団体である「日本南画院」が設立され、新しい南画運動が始まりますが、それも昭和15年、戦争の勃発とともに途絶えてしまいます。

現代の南画


 第二次世界大戦後になると南画界に再び新しい動きが起こります。小室翆雲門下の降旗篁岳、須藤悟雲、高橋暉山、矢野青霄らにより「南画院」(昭和21年創立・現特定非営利活動法人南画院)が、松林桂月、矢野橋村、河野秋邨、川口楽土らにより「日本南画院」(昭和34年創立・現社団法人日本南画院)が創設され、現代南画創造への追求が再び活発化します。

 現代南画は明治の南画とも大正の「新南画」とも異なる独自の革新的な南画が主流になっています。第一にモチーフは伝統的な中国風の自然風物から日本の自然風物が中心になったこと。第二に絵画形態は掛け軸から現代生活に合った額装へと変わったこと。第三に従来の南画技法に加えて日本画や西洋画の写生技法や構図法も取り入れていること。これらによって水墨と墨彩による表現という東洋絵画の精神は引き継ぎながらも、現代に合った新様式の南画が確立され今日に至っているのです。


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